1.17忘れへんで
宝塚市教育委員会
宝塚市域で118名の死者・2万世帯を超える全半壊という未曾有の被害をもたらした、あの阪神・淡路大震災から2年が経ちました。
宝塚市は、災害に強い快適なまちづくりをめざし、震災復興計画を策定し、「災害に強い都市の創造」、「快適都市の創造」、「共生社会の創造」、「新しい宝塚文化の創造」を4つの柱にして取り組みを進めています。
宝塚市教育委員会も、震災の体験を通して学んだ多くのことを後世に語り継ぎたいという願いから、昨年、記録集「こわかったよ」を発行しました。
そして今回、「災害についてもっと学んで欲しい」、「自分の住むまちについて関心をもって欲しい」、「自分の育った宝塚市を好きになって欲しい」という願いで防災教育副読本「1.17忘れへんで」を発行しました。
防災教育の学習を通して、決して震災の体験を風化させることなく、未来に向かって力強く生きていく宝塚っ子に育ってくれることを期待します。
最後に、防災教育副読本の作成に精力的に携わっていただいた先生と、取材協力・資料提供していただいた関係機関の方々に感謝を申し上げます。
平成9年1月17日
宝塚市教育長
樋口 健
第1章 宝塚の自然と災害
第1節 宝塚市の地形の特色・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1ページ
第2節 六甲山の成り立ち・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1ページ
第3節 地震と断層・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1ページ
第4節 兵庫県南部地震における宝塚市の災害の様子・・・・・・・・・5ページ
第2章 災害にあった時の行動
第1節 避難の基本・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6ページ
1 地震の時
2 火事の時
3 風水害の時
第2節 いざという時の行動・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9ページ
1 地震の時
2 火事の時
3 風水害の時
第3節 グラッときたら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12ページ
1 学校にいる時
2 登校・下校の時
第4節 わたしはこうして生き延びた(阪神・淡路大震災に学ぶ)・・・14ページ
第3章 災害から命を守るために
第1節 わが家の防災プラン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16ページ
1 家族で防災会議をしよう
2 避難に備えて
第2節 生きる力を身につけよう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18ページ
1 サバイバルの知識
2 応急手当の実践的知識を身につけよう!
3 挑戦してみよう
第4章 ボランティア活動のすすめ
第1節 ボランティア活動とは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21ページ
1 ボランティア活動ってなに?
2 阪神・淡路大震災~その時ボランティアは? ~
第2節 ボランティアのすすめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23ページ
1 ボランティアはだれにでもできる!
2 ボランティアに取り組んで
第3節 学校での取り組み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26ページ
1 宝塚市立中山五月台中学校
2 宝塚市立宝塚中学校
第5章 災害時の情報活用について
第1節 A君:風水害の場合・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30ページ
第2節 Bさん:地震の場合・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33ページ
第3節 宝塚市の取り組み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・38ページ
1 宝塚市防災無線システム
2 宝塚市防災ネットワークシステム
第6章 心のケア
第1節 災害にあったときの心や身体について・・・・・・・・・・・・・・・・・・39ページ
1 心や身体にどんなことがおこるのでしょうか?
2 心の健康を取り戻すにはどのようにしたらいいでしょうか?
第2節 近所やまわりの人達との助け合い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42ページ
第3節 生きるということ―震災から学んだこと・・・・・・・・・・・・・・・・・44ページ
第7章 災害に強いまちづくり
第1節 災害に強いまちとは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46ページ
第2節 宝塚市の取り組み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・47ページ
1 災害対策計画について
2 重点復興地区について
3 道路の整備について
4 公園の整備
第3節 あなたのまちづくりプラン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49ページ
1 あなたの住んでいるまちのまちづくりプランを立てよう
2 あなたのまちをチェックしよう
3 あなたのまちの改善計画
4 宝塚市長さんへメッセージを送ろう
発生日時 平成7年1月17日午前5時46分
震源地 淡路島北部(北緯34度35.6分・東経135度2.1分)
震源の深さ 18km
地震の規模 マグニチュード7.2
最大震度 7(神戸市、芦屋市、西宮市、淡路島北部および宝塚市の一部)
地震の特徴 内陸・都市直下型地震/横揺れと縦揺れが同時に発生
平成8年12月25日現在
<兵庫県>
死者 6,394
行方不明者 2
重傷者 8,674
軽傷者 31,497
全壊世帯数 178,174
半壊世帯数 257,404
全焼世帯数 8,866
半焼世帯数 456
<宝塚市>
死者 118
行方不明者 0
重傷者 60
軽傷者 2,141
全壊世帯数 5,535
半壊世帯数 14,737
全焼世帯数 2
半焼世帯数 0
自分たちの考えを宝塚市長さんに提言する小学生
(長尾南小学校4年生)
私たちの街宝塚市は、どのような地形の特色を持った街なのでしょうか。 市域の略図を見てみましょう。 (図1)
宝塚市の街並みを高い位置から眺めてみると、2つの山地(長尾山系と六甲山系)と平野(扇状地)からできています。
その平野の中を武庫川が広々と流れ、その河川に逆瀬川、仁川、天神川という河川が流れ込んでいます。 この武庫川は昔から「暴れ川」として有名で、ひとたび大雨が降ればすぐに洪水となっていました。 この原因は、武庫川のすぐそばにある六甲山系の地質にあります。
(図1)
六甲山の大半の地質は、花崗岩です。 この塊が地中の左右から、上へ上へと巨大な力で突き上げるようにして隆起してきたのです。 この動きが100万年前から何度も繰り返されて、今日の六甲山特有の形をつくってきました。
地殻変動による大きなエネルギーは、次々と花崗岩を突き上げていき、平胆地がそれぞれ階段状になってしまったのです。 この突き上げられた境目を「衝動断層」といっています。
この断層によって形成された六甲山系は、ひび割れだらけで、あちこちに破砕帯が生じています。 長い年月にこのひび割れのすき間から雨水がしみこみ、花崗岩をもろい岩石に変えていったのです。 六甲山系は、このもろい花崗岩が広がっている山地なのです。
地震とはどんなものなのでしょう。 一般的な定義でいうと、「地下の岩石の一部分に急激な運動が起こり、そこから地震波(縦波、横波、表面波)が発生する現象」をいいます。
縦波(P波(Primary Wave))は、速度が速く、地震のとき最初に伝わってくる波(図2-1)で、物の疎密の状態が移動していく横波(S波(Secondary Wave))は物の中に生じたねじれの状態が移動していく波(図2-2)です。
縦波=P波の伝わり方:速度が速く、地震のとき最初にやってくる波で、小刻みにゆれる。 岩石の中に生じた疎密=体積の変化を伝える。 (図2-1)
横波=S波の伝わり方:P波より遅く、やや大きめのゆっくりとしたゆれ。 岩石の中に生じたねじれ=形の変化を伝える。 気体や液体の中は伝わらない。 (図2-2)
出典:筑摩書房刊「大地震は近づいているか」P101
地震には、プレートが関係する地震と断層などが動いて起こる地震とがあります。
ではプレートとはどんなものなのでしょう。
地球の内部は地表部分に固い層があり、その下のマントルおよび中心部の核という3つの部分からできています。 マントルは岩石の固体でできていますが、一種の対流を起こしています。 海の底(太平洋)には東太平洋海嶺と呼ばれる海底山脈があります。 その山頂に沿って大きな割れ目が走っています。 ここでマグマが上昇してきて、玄武岩質溶岩となって湧き出しています。 この溶岩は左右に分かれ、年数cmの割合で移動しています。 (このプレートが地球の地表面をゆっくり移動していることを説明するモデルが、プレートテクトニクスと呼ばれているものです。) この溶岩がやがて冷えて硬くなって岩盤の板のようなプレートを作り上げます。
このプレートは冷えて重くなり、他のプレートとぶつかり合って沈みこんでいきます。 これが海溝(日本付近では日本海溝があります。) と呼ばれています。
日本は太平洋プレート、ユーラシアプレート、北米プレート、フィリピン海プレートの4つのプレート(図3)が複雑にぶつかり合っている場所なのです。
(図3)日本周辺のプレートとプレート境界
出典:筑摩書房刊「大地震は近づいているか」P16
ふつうプレートが関係して起こる地震はプレート境界面で起こり、この地震はプレート間地震(図4)といわれ、一般に震源が深く(一般には震源の深さが何百キロ以上)なり、深発地震になる場合が多く、また、断層が動いて起こる地震は、震源が浅く(震源の深さが10~20から60~70キロの範囲)陸地で発生することが多いので、直下型で浅発地震になる場合が多いようです。
(図4)日本列島付近の地下のようす
出典:旺文社刊「基礎からよくわかる地学ⅠB」P184
今回の兵庫県南部地震はまさに、淡路島の「野島断層」が動いて起こった直下型地震といえます。
では、断層とはどんなものなのでしょう。 地球の内部の岩石に何らかの力が加わると、岩石にひずみが生じます。 そうすると、岩石の弱い部分に割れ目が生じます。 そして、この割れ目の両側がずれることがあります。 このずれを断層(地殻の深い傷)といっています。
このずれには断層線に平行なずれの横ずれ(右ずれと左ずれ)と垂直縦ずれ(逆断層と正断層)(図5)があります。
(図5)断層の分類
このほか、日本には2つの大きな割れ目があります。 その1つは中部地方の飛騨山脈と赤石山脈の東側を通り、日本を西南日本と東北日本に分けている「糸魚川―静岡構造線(フォッサマグマ(大きな割れ目という意味)と呼ばれています)」と、この糸魚川―静岡構造線から分かれて、紀伊半島から四国地方を横切り、九州地方にのびて、西南日本を外帯と内帯に分けている「中央構造線」です。 そして、その他に中央構造線から分かれ、宝塚の街がちょうどその上にのっかっている「有馬―高槻構造線」、敦賀から名古屋あたりを通っている「敦賀湾―伊勢湾構造戦」などがあります。 (図6)
(図6)フォッサ・マグナ、糸魚川―静岡構造線、中央構造線と、おもな構造帯
出典:筑摩書房刊「大地震は近づいているか」P117・P13
参考資料
宝塚市域の活断層図
国土地理院:1/25000都市活断層図「大阪西北部」の宝塚市域(88%に縮小)
(図7)
では、今回の兵庫県南部地震でよく耳にした「活断層」とはいったいどんなものなのでしょう。 先に述べた、断層に再び力が加わると、断層がなかった場合より容易にずれてしまいます。 このように、地表に現れている断層の内、過去数十万年ぐらいの間に変位をしていて、なおかつ今後もずれが起こりうる可能性のある断層を「活断層」といっています。
今回の地震で近畿地方の活断層について関心が高くなってきたことは間違いありません。 そして、地震の被害の大きかった地域を調べてみると、この断層の走っている地域と一致することが分かりました。 (図7)
平成7年(1995年)1月17日午前5時46分にマグニチュード7.2の内陸直下型地震が兵庫県南部を襲いました。 宝塚市でも激震(震度7)の地域を含め大きな被害(死者118名、負傷者2,201名、全半壊家屋20,272戸、全焼家屋2戸)がでました。 (図8)
(図8)宝塚市内の被害の様子
次の2つのグラフ(宝塚市消防本部作成)を見てみましょう。
木造 91.2% 323人
鉄筋コンクリート 8.8% 31人
(図9)建物別救出状況(1/17~2/12)
家屋倒壊 66.0%
落下物 30.0%
家具等の転倒 その他
(図10)負傷原因別割合
「木造住宅」に被害が集中していることが分かりますが、「木造住宅が地震に弱い、木造住宅は危険である」という誤った考えではなく、「なぜ、木造住宅に被害が集中したのか。」 という疑問を持ってください。 そして、次のきたるべき地震に備え、今何をすべきか、こうした被害を少なくするにはどうしたらよいのかを考えてください。
ミニ知識
西山小学校には、地震や火山噴火の予知の基礎データとなる地殻変動を調べる電子基準点が設置されています。 上空2万キロの人工衛星が発信する電波をキャッチし、データを国土地理院に転送しています。 兵庫県内24か所に設置されています。
ミニ知識
御殿山中学校には、震災後、飲料水兼用の耐震性防火貯水槽が埋設されました。
震度7にも耐え、水道が出なくなっても、1,000人が1か月使うことができます。 他に、良元小学校・スポーツセンター・中山台コミュニティーセンターにも埋設されています。
自分の命は自分で守る
今、何を優先すべきか(考えてから冷静に行動)
① まず身の安全を確保
大きな揺れはせいぜい1分くらい。 テーブルや机などの下にすばやくもぐります。
その時、机や座布団で必ず頭部を守ります。
② 逃げ道の確保
激しい揺れでドアや窓が変形して、開かなくなる場合があります。
揺れの合間に、ドアを少し開け、あらかじめ出口を確保しておきます。
特に、マンションでは閉じこめられてしまうので、必ず実行します。
③ 火の元を閉める
グラッときたらすばやく火を消します。
揺れが大きい時は、揺れがおさまるのを待ちます。 ガスは元栓をしめ、電化製品はコンセントから抜きます。
<手で頭を守るときの姿勢>
まわりに何もない時は、手のひらで頭を守りましょう。 (落下物が頭を直撃しないようにします。)
火事だ! どうしたらいいか、ひとりで消火しようと無理せず、隣近所に援助を求め119番通報を! 初期段階で消火できなかったら、すばやく避難しよう。
① すばやく通報
ひとりで消火しようとせずに、大きな声で「火事だ」と叫び隣近所に出火を知らせます。 まず初期消火につとめるとともに、まわりの人に119番通報を頼みます。
もし、自分が119番通報をしなければならなくなったら、必要なことを簡潔に報告できるようにしましょう。
Ⅰ 火災であること
Ⅱ 出火場所(住所)
Ⅲ 建造物の種類(木造/ビル)
Ⅳ 閉じこめられている人や怪我人の有無
Ⅴ 現場近くの目印となるもの
② すばやく消火
消火できる目安は出火から3分以内です。
消火には水や消火器だけでなく、布団や毛布で火をおおうなど、身近なものも利用して全力を尽くします。
<くみ置きの水が活躍>
風呂の水をバケツでかいだし、一気に消火したということもあります。
③ すばやく避難
天井に火がまわったら、消火をあきらめます。 避難する時は燃えている部屋のドアを必ず閉め、火の手が少しでも遅くなるようにします。
119番通報は確実 ・簡素に!
素早い情報キャッチと安全対策
★ラジオやテレビなどの気象情報をよく聞き、各地の被害状況をつかんでおきます。
★市役所、消防署などの広報に気を付けます。
★外出していたら早く帰宅します。 (外出を控えます。)
★家財道具を2階など、水害の被害を受けにくい所へ移します。
★水害予想箇所に指定されている所などでは、すぐに避難できる態勢をとります。
★飲料水・食糧は、3日分を目安に準備しておきます。
★懐中電灯やラジオ(電池)などの点検をします。
ミニ知識
宝塚市では、兵庫県南東部または兵庫県南部に暴風・暴風雪・大雨・洪水・大雪警報が発令されると、学校へ登校せず自宅待機することになっています。
ミニ知識
梅雨と台風のシーズンが始まる6月は「土砂災害防止月間」です。 あなたの家の近くを点検し、もしもの時にはどこを通ってどこへ避難するのか、家族の人といっしょに確認しておきましょう。 宝塚市では、毎年、水害危険予想箇所を指定し、防災パトロールを強化したり、河川や道路の防災工事を進めたりしています。 平成7年には316カ所、平成8年には178カ所が指定されています。 平成7年が非常に多いのは、震災の影響で地盤がゆるんだことによるものです。
地震はいつ起こるかわかりません。 常日頃から、災害に対する心構えを身につけておきましょう。 そして、いざというときには、落ち着いて行動すれば、被害も少なくてすみます。
① まず身の安全の確保
ぐらっときたら、テーブルや机など頑丈なものの下にもぐって、落下によるけがから身を守ります。
② 逃げ道の確保
揺れでドアや窓が変形して開かなくなる場合があります。 閉じこめられないようにドアを少し開けて、出口を確保します。 特にマンションに住んでいる人は必ず実行しましょう。
③ 火の始末
地震による火災で被害が拡大します。
揺れを感じたらすぐに火を消します。
ガスは元栓を閉め、電化製品はコンセントから抜きます。
④ 落ち着いて避難する
あわてて外に飛び出すと落下物にあたってけがをするおそれがあります。
家が倒壊する危険がなければ落ち着いて避難しましょう。
⑤ 出火したらすぐに消火を
出火したら、大声を出して周囲に援助を求めます。 119番通報も忘れずに。
⑥ 逃げるときは安全なところを通る
狭い道、ガケや川の近くは危険です。 余震などでブロック塀が倒れたりするので注意しましょう。
⑦ 土砂崩れや津波に注意
土砂崩れには横、津波には高い所へ逃げます。 津波は24mにも達します。
⑧ 避難する時は歩いて
第1次避難は歩ける範囲の所へ待避するのが原則です。 持ち出すものも必要最小限にとどめておきましょう。
⑨ 皆で助け合う
勝手な行動は家族の避難を遅らせる結果になります。 近所の人とも協力しましょう。
⑩ 噂に惑わされない
不安な気持ちから大きな余震がくるといった噂が流されやすいものです。 常にラジオやテレビなどで正しい情報を得ましょう。
火災で避難するときの7つのポイント
1 天井に火がまわったらあきらめて避難します。
2 身なり、持ち物にこだわらず、すばやく避難します。
3 ためらわず、炎の中でも一気に走り抜けます。
4 煙が多い場合は、口にタオル等を当て、低い姿勢で逃げます。
5 一度脱出したら、絶対に引き返しません。
6 逃げ遅れた人がいる場合は、すぐに近くの消防隊に通報します。
7 避難は大人の人の指示に従って行動します。
※近くに大人の人が誰もいない時は、煙の流れなどの情報を収集した上で避難の方向を決定します。 必ずしも、下をめざして避難することがよいとは限りません。 火の勢いの強い時には、無理をせず屋上で救助を待つことも正しい選択です。 5分程度で救助隊は火災現場に到着します。
① 逃げる時の履物
運動靴がよい。 裸足は危険。 長靴も水が入り重くなるので、かえって足をとられ危険です。
② 紐でつながって
水の勢いに流されることがあるので、ロープなどで体をくくり、はぐれないように避難します。
③ 歩ける水深
歩いて避難できる水深は50cm~70cm。 腰がつかるような場合は無理せず、できるだけ高い所で救助を待ちます。
④ 足元に注意する。
割れたガラスびんなど、思いもしない危険が潜んでいる可能性があります。 棒などを杖がわりに安全を確認しながら慎重に避難します。
⑤ 大人の人と一緒に避難する。
自分の力を過信せず、必ず大人の人の指示に従って避難します。 勝手な行動は命取りになります。 小さい子と避難する時は、間にはさむなどして避難を手助けしましょう。
ミニ知識
集中豪雨という言葉を聞いたことがあるでしょう。 ある限られた場所にわずかの時間でたくさんの雨が降ることです。 これは、台風などと違って予報が困難です。 三田市で集中豪雨があった時、宝塚市ではほとんど雨が降っていないのに武庫川が氾濫するということがあります。
ミニ知識
アメリカでは大きな竜巻が発生し、家が飛ばされるなどの被害が出ている、というのをニュースで聞きます。 しかし、日本でも規模は小さいけれども、結構あちらこちらで発生しています。 すばやく逃げることです。
① 教室では
とにかく机の下にもぐり込みます。 いつもの訓練での注意事項を思い出しましょう。
② 特別教室では
特別教室で火を使っている場合はすぐに火を消します。
図書室では、本が飛び出したり、本棚が倒れてきたりして非常に危険です。 早く机の下にもぐり込みましょう。
③ 教室以外にいた時は
急いで近くの教室に避難します。 近くに教室がない場合は、窓や電灯から離れて、頭部を守りながら姿勢を低くします。
④ 体育館では
とにかくフロアーの中央へ集まります。 電灯の落下もあるので真下は避けます。
⑤ 屋上では
あわてて避難行動を起こしません。 中央に集まり、揺れがおさまるのを待って行動します。
⑥ 校庭では
校舎から離れて、運動場の避難場所に集まって腰をおろして待ちます。
⑦ 揺れが落ち着いたら
「押さない・走らない・しゃべらない」の約束を守り、先生の指示に従って避難します。 避難の時、避難場所でも勝手な行動はしません。
★先生がいない時には、バラバラに行動せず、安全を確かめながら集団で避難場所へいきます。 危険を感じたら無理をせず、救助を待ちます。
ミニ知識
宝塚市では、ブロック塀から生け垣への転換を応援しています。 緑は、気候を調節したり、空気をきれいにしたり、音を消したり、生き物を育てたりする機能を持っています。 また、自然災害の発生を未然に防いだり、災害時には、被害の拡大を止めたりする働きも持っているのです。
地震はいつ起きるかわかりません。 登校・下校中に地震にあったら、まず、カバンや上着で頭を守り、ブロック塀や高い建物から離れるなどの危険回避行動をとります。 揺れがおさまったら、家か学校(近いほう)に避難します。 避難の途中に余震が来て2次被害が出るおそれがあるので、十分注意しましょう。
① 住宅街では
ブロック塀や、傾いている家には近づきません。 垂れ下った電線なども非常に危険です。 早く、しかも注意しながら公園などの広い場所に移動します。
② 歩道橋では
すぐにしゃがんで、手すりにしっかりつかまります。 揺れがおさまったことを確認して、急いで階段を降り避難します。
避難には歩道橋は使いません。
③ 橋の近くでは
揺れで亀裂がはいっている可能性があるので、基本的には橋は使いません。 やむを得ない場合には、足下に十分注意しながら渡りましょう。
④ 建物の近くにいた時
店の看板が落下したり、ショーウインドウのガラスが割れ散ったり、自動販売機が倒れてきたりで危険がいっぱいです。 歩道の車道寄りを通って避難しましょう。 自動車も揺れでハンドルをとられやすいので、十分注意します。 車道には絶対に飛び出さないようにしましょう。
⑤ 大きな建物の近くでは
窓ガラスやレンガ、壁など何が落ちてくるかわかりません。 頭上に注意しながら広場か、丈夫な建物に逃げ込みます。
⑥ 道路では
地割れを起こしたり、地盤がゆるくなっている可能性があります。 地滑りなどに十分注意しながら避難します。 飛び散ったガラスの破片などにも気を付けます。
阪神・淡路大震災/宝塚の記録「こわかったよ」には、災害時の取るべき行動についての教訓がたくさんあります。 これらの体験から多くのことを学ぶことができます。
私はすごいゆれで目が覚めて、本能的に手で頭を抑えた。 そのときは押し入れのとが落ちてきただけと思っていたけど、後でみてみると、頭と足の所にタンスが落ちていて、「よく生きていたなあ」と思った。 (P43)
花瓶や本が直撃したり、タンスが倒れたりしてケガをした人がたくさんいました。 とっさにふとんにもぐり込んだり、机にかくれたりしてケガをまぬがれた人もたくさんいました。 これからは、家具の配置や転倒防止器具をつけるなど、注意する必要があります。
1階でねていたおばあちゃんとおじいちゃんは、台所がぐちゃぐちゃなので玄関から出れないから、うら口からでました。 (P32)
玄関の扉が変形したり、物が散乱して避難口をふさぐことがあります。 日頃から出入り口には大きな物を置かないことと、揺れの合間にドアや窓を少し開けることが大切です。
何がたおれてきたのか分からなかったけど、私の前にかべのような物が落ちてきました。 でようと足や手をのばしても、ずーっと私の前には何かがふさいでいました。 「たすけて~」と、さけびまくりました。 そしたらお母さんが、「お母さんもうごけないのっ」といいました。 もう私はそのとき死ぬと思いました。 外で、人のこえがきこえて、また、私はさけびました。 そしたらいろいろ人がさがしてくれて、たすかりました。 (P47)
タンスがたおれてくるのをお父さんがおさえてくれた。 お母さんが助け出してくれた。 と家族が協力して助け合ったことはもとより、隣近所の人が力を合わせてガレキの中からたくさんの命を救いました。 日頃から、地域の人たちとのつき合いを深めておくことが大切です。
「うごいちゃあかん、あんたのまわりにガラスがある。」 と言ったので、外を見ました。 そしたら真っ暗でした。 そして、おにいちゃんがおりてきて、かいちゅうでんとうを持ってきてくれました。 それで、ぼくのまわりのガラスをとってくれました。 (P21)
明かりがあると人間は不安感がやわらぎます。 まわりの状況がどうなっているのかを確認し、どうすればいいのか対策を立てることができるからです。 ガラスという危険な状況から安全に回避することもできました。 懐中電灯が埋まってしまってもローソクで明かりを確保した人もありました。
下ではお父さんとお母さんが汗をかきながら、お父さんはガスコンロに、お母さんはガスストーブにそれぞれ手をかけ、こう直していた。 (P27)
寒い朝の始まりの時で、起きていた人はストーブなどをつけていました。 とっさに火を消した家庭が多く、宝塚市では火災件数4件と非常に少なかったです。 暖をとるためのたき火からの出火もなく、被害が少なくて済みました。 日頃からの一人一人の防火意識が役に立ちました。
何もかもたおれ、床がうもれていて、足のふみ場がなかった。 私は、何とかして玄関まで行こうとしたが、「動いちゃだめ!! くつをはいて!!」 と母の声。 父にくつを取ってもらい、たおれている物の上をはい上がり、やっと外の廊下まで脱出成功。 (P40)
底の分厚い靴なら、ガラスなどで足を怪我することはありません。 自分のいる所から靴のあるところまでタオルや毛布で足を保護しながら移動し、外に避難するときは、あわてて裸足で飛び出さず、必ず厚手の靴をはくようにしましょう。 外にも危険がいっぱいです。
水がのみたいから、じゃぐちをまわしてのもうと思ったら、水がでませんでした。 ローソンに行くと、もうすでに水がなくなっていたから、すごいなと思いました。 (P33)
ライフラインが途絶えて、救援物資が届くまでに3日間かかるといわれています。 その間の水や食糧を各家庭で蓄えておく必要があります。 震災直後24時間営業の店に多数の人が押しかけましたが、十分に対応できるだけの商品はありませんでした。 また洗濯機や風呂に残っていた水が大変役立ちました。 日頃から貯め置く習慣をつけておきましょう。
電話がいっぱいかかってきて東京の友達からも電話がかかってきてちょっとうれしかった。 (P26)
近くの公園の公衆電話に大阪のおばあちゃんと神戸のおじいちゃんの家に電話をかけに行きました。 大阪の方は何回か電話してやっと連絡がついて、みんな無事だったそうで本当にほっとしたけれども、神戸のおばあちゃんの家は神戸市東灘区ということもあって余計に心配でした。 (P37)
被災地では、安否確認のための電話が殺到して、不通の状態が長い間続きました。 その中で、公衆電話は比較的つながり、長い列ができました。 10円玉も非常用として用意しておくことも必要です。 また、宝塚小学校の5年生が調査した中でも(P81)携帯電話が活躍しました。
ミニ知識
道路は宝塚市を網の目のように走っています。 道路は、被災者が避難したり、援助物資を運ぶ車が通ったりするだけではなく、火災の拡大を抑える役割もあります。
1 家族で防災会議をしよう。
学校では、地震などの災害に備えて避難訓練を行い、安全な避難の仕方についての話し合いも持たれます。
あなたの家ではどうでしょう。 地震や災害に備えて、話し合ったことがあるでしょうか。 あの揺れのこわさをわすれないうちに、地震に対する備えについて話し合ってみましょう。
まず、家の中の安全について考えましょう。
○家具・電気製品が倒れないように金具で固定しよう。 (図11)
(たんす、ピアノ、本だな、クーラー、冷蔵庫、テレビなど、)
(図11)
○ガラス・食器がわれないように、とびらに止め金をつけたり、ガラス部分にフィルムをはる。
○家具の配置を考えよう。 寝ている場所が家具の下じきにならないようにしよう。 (図12)
(図12)
○非常の際に出入り口をふさいでしまわないようするため、玄関には物を置かない。
地震が起きたとき、被害が少しでも小さくなるように努力することが大切です。
これらのことは、大人の人にまかせなければできないことが多いですが、あなたにもできることがあります。
例えば、机や本棚。 家の人に固定してもらったとしても本棚や机の引き出しの中が乱雑だと、地震のとき中の物が飛び出してきて危険です。 重い本は本棚の下に入れるように整理すると倒れにくくなり、本が落下してけがをすることもありません。 机の引き出しについても同じことが言えます。
また、高いところに物を置かないようにすることなども自分で気をつけられます。 自分の身の回りの物をきちんと整理しておくことが、もっとも大切なことなのです。
家の人との話し合いの中で、避難する場所を確かめておきましょう。 家族が別々の所で地震に会うことがあります。 その時は、どこに集合するのかをあらかじめ決めておくと安心です。
また、いざという時あわてないため、持ち出すものを考え、リュックなどにつめておくことも大切です。
◇非常持ちだしリスト(例) (10~15kgが目安)
チェック |
品目 |
チェック |
品目 |
チェック |
品目 |
飲料水 |
マッチ・ライター |
時計 |
|||
食料品 |
ろうそく |
ナイフ |
|||
救急医療品 |
ヘルメット |
衣類 |
|||
貴重品 |
ロープ |
軍手 |
|||
現金 |
下着 |
使い捨てカイロ |
|||
懐中電灯 |
タオル |
カッパ |
|||
ラジオ |
ポリ袋 |
卓上コンロ |
|||
電池 |
ティッシュ |
燃料 |
何がどのくらい必要か相談して、みんなも分担して持ちましょう。
ミニ知識
土石流という言葉を聞いたことがありますか。 新潟県との境の長野県小谷村を中心に、平成7年8月と翌年の12月に連続して同じところで大規模な土石流が発生し、大きな被害をもたらしました。 集中豪雨などによって、恐ろしい勢いで水と土砂が流れるのです。 何トンという大きな岩が次々と流され、家を押しつぶしていきました。
長野県小谷村の土石流発生現場 (平成7年8月)
今回の地震では、ガス・水道・電機などライフラインと呼ばれるものが全てストップし、日常生活に大きな混乱をもたらしました。 もし飲料水やマッチ、ライターなどを持ち出せず、給水車も来ない状況におかれたら、あなたはどうしますか。
○水をさがす
・川、プール、池を発見する。
・雨水をためる。
・露から取る。
・太陽熱を利用する。 (図13)
(図13)
ただし、飲み水として利用する場合は、必ず沸騰させてからにします。 沸騰させれば、少し濁っていても大丈夫です。
よごれがひどい場合は、くみ置きをして上ずみの水を取ったり、布や服でろ過してから沸騰させます。
○火を起こす
・カメラやビン(底)があれば、太陽光線を利用し、かわいた紙などに焦点を作り火を起こす。 (図14)
(図14)
・かわいた木の枝同士をこすりあわせる。
・石英質の多い石をけずるように打ち合わせて、火を起こす。
いずれの場合も火のつきやすいものを用意することが必要です。 例えば、乾燥した草、布、木のけずりかす、松の葉、鳥の羽などです。
火のつきやすいものに火が燃え移ったら、すぐに小さな木片や小枝に火を移します。 そして、さらに大きな木に移します。
ミニ知識
災害が起こった時、その人が過去にどういう経験をしたかが、安全に避難できるポイントとなります。 さらに、どういうことが身の回りに起こっているかを正確につかむことができれば、ある程度冷静な行動がとれます。 人間は不意をつかれるとパニックになりやすいので、日頃から災害に備えて基本行動を訓練しておく必要があります。
ミニ知識
家族で旅行に出かけたり、買い物に行ったりした時に火災に巻き込まれるとパニック(混乱状態)になります。 あらかじめ避難口を確かめておくと、落ち着いて避難することができますね。
私たちは、いつどこでけがや病気になるかわかりません。 そんな時、止血の方法や火傷や骨折の場合の対処の仕方などを知っていれば大事に至らなくてすむことがあります。
(小学生用読本には詳しく説明されていますので、知らないという人はぜひ覚えておきましょう。)
中学生になったあなたは自分を守るだけでなく、自分のまわりのかけがえのない人の命を救うための「救命措置」ができるようになってほしいのです。
(図15)
右の図はドリンカーの救命曲線です。 あなたが呼吸停止になった人の近くに居合わせ、すぐに119番通報をします。 救急車があなたのところに到着するのは全国平均で5~6分後です。 右の図でわかるように、どんなに訓練された救急隊員でも5分後には4人に1人しか助けることができないのです。 しかし、あなたが人工呼吸や心肺蘇生の方法を知っていて、救急車が到着するまでに応急手当をすることができれば、あなたの大事な人の命を救うことができるのです。
1 普通救命講習
応急手当の重要性・応急手当の対象者とその必要性・・・・1時間
救命に必要な応急手当(観察要領・心配蘇生法・止血法)・・2時間
3時間の講習修了者へは、「普通救命講習修了証」が交付されます。
2 上級救命講習(8時間)
3 応急手当普及員講習(24時間)
4 応急手当指導員講習(普及員で16時間)
この読本の学習を進めてきたあなたの学級で、ぜひ普通救命講習の機会をつくりましょう。 そして、いざという時に適切な措置がとれるようにしましょう。
あなたの先生は毎年、普通救命講習を受け、校内における緊急時に適切に対応できるようにしています。 突然の事態が発生した時、冷静に対処するために、同じことを繰り返し経験し、身体で覚えることを実践しているのです。
ミニ知識
宝塚市は近隣の自治体や消防・医療関係・放送会社などと、災害時における相互応援に関する様々な協定を結んでいます。 また、指定関係機関や民間企業の協力で、災害発生直後の被災者への物資の供給や援護活動が迅速に行えるよう体制を整えています。
<アウトドアライフのすすめ>
あなたは小学校の時、「自然学校」に行きましたね。 中学2年生になると「自然学校」に行く学校もあります。 学校を離れ、保護者から離れ、現代文明から離れて5泊6日を兵庫県内にある施設や自然の中で過ごします。
その体験学習では、薪で火をおこし飯ごうでご飯をたいたり、シェフになりカレーを作ったという人もいるでしょう。
テントでの野営キャンプを体験した人もいるかも知れませんね。
あなたは、自然学校以外でアウトドアの生活を体験したことがありますか。 震災後、アウトドアライフが見直されました。 ライフラインが途絶えた時、活躍したのです。
長期の休業を利用してアウトドアへ出かけてみましょう。 宝塚市立少年自然の家では、自然学習会・天文学校・少年少女キャンプ・チャレンジキャンプ・耐寒キャンプなど多くの機会を設けて、あなたの自然体験を応援しています。 その他にも、兵庫県や県内の施設などが主催する野外活動もたくさんあります。
<ノー○○デーのすすめ>
野外に出かけなくても、ライフラインが途絶えた時のことを考えた生活を工夫する機会を持つことは大切なことです。 家族防災会議とともに計画的に取り組んでみましょう。
電気やガス ・水が無い時、あなたはどうしますか。
<自然観察のすすめ>
私たちのまわりには自然があまり見かけられなくなりました。 しかし、小学生時代や今でも探検家として動植物と友達になりたいと思っている人は多いのではないでしょうか。
手塚治虫は、少年時代に宝塚で過ごし、野山を駆け回って昆虫採集に没頭しました。 そして、「オサムシ」と言う5cmくらいのゴミムシを自分のペンネームに選びました。
中学生の時の非常に細かい自然観察の記録が発見されました。 昭和18年に4時間をかけて174匹の昆虫を採集することができたのが、わずか2年後には11匹しか見つけることが出来なかったそうです。 手塚は、「昔懐かしい昆虫採集場の面影は跡形もなく消え失せ、無慈悲な人間どもの荒らすに任せつつあるのを見たとき、つくづく自然界の悲哀を感じた。」 と書きとめています。 その少年時代の想いが、生涯を通じて追求した「命、そして自然」というテーマだったのです。
あなたもあなたの目で自然ウォッチングをしてみましょう。 1年を通じて各地で自然観察会が行われています。 まずは、参加してみましょう。
また、図書館などで危険な生物・食べられる植物などを学習することも大切なことです。
阪神・淡路大震災では、宝塚市にも全国から13,000人以上の人が来て、ボランティアとして活躍しました。
震災後、よくボランティアという言葉を耳にするようになりましたが、ボランティアとはいったいどんなものなのでしょうか。
英語のボランティアは「自由意思」を意味するラテン語「私は望む」を語源としています。 つまり、自分から進んで何かをするということです。
それでは、何をしたらいいのでしょうか。
震災の時、バケツを持ってプールの水をくんでいる人を見かけました。 炊き出しの手伝いをしている人もいました。
しかし、ボランティアとは、災害の時に困っている人を助けようと行動することだけではありません。
電車の中でお年寄りに席をゆずったり、大きな荷物を持っている人を手伝ったり、道路に落ちている紙を拾ってゴミ箱に捨てている人を見かけます。 このような、日頃なにげなくやっていることも、実は小さなボランティアなのです。
あなたの学校では毎年ボランティアスクールをしているでしょう。 車いすにのったり、アイマスクをつけて歩いたり、障害のある人の話を聞いたりして「福祉」のことについて学習しています。 そして、デイサービスセンターやワークセンター・老人ホームなどに出かけていって、クリスマス会などをしている学校もあります。 仮設住宅に住んでいる方と交流している学校もあります。 また、アルミかんを集めたり、ベルマーク・グリーンマーク・古切手などを集めている学校もありますね。
学校で福祉の勉強をし、体験し、そして、地球環境のことも含めたボランティア活動を経験する中で、あなた自身が毎日の暮らしの中でどう有意義に生きていくのかということを考えてみて下さい。
そこで、1月21日に発足したボランティア本部には、全国各地から震災ボランティアとしてかけつけた人たちが集まり、復旧ボランティア活動が始まりました。
当初は救援物資の積みおろしや仕分けに追われていましたが、10日もすると被災者のニード(必要とする物)とボランティアのできること・やりたいことによる分担もできました。 このことで、仮設風呂・警備・引っ越し・子ども保育・シート張り・カーボランティア・洗濯・避難所応援など幅広い活動ができるようになりました。
震災から1か月もたつと、宝塚市在住のボランティアが被災に負けずに活動を少しずつ再開しました。 そして従来の登録者をこえる人たちがボランティア本部へかけつけ、活動を支えてくれました。
2月28日、宝塚市はボランティア本部を解散しました。 地元のボランティアが立ち上がった以上、今後何年かかるかわからない復興へ向けた活動は我々宝塚市民が担っていかなければならない、という決断に立ったものでした。 解散式では「いつの日か宝塚にお越し下さい。 不死鳥のようによみがえった宝塚を見て下さい。」 との強い決意の中、地元ボランティアに活動が引き継がれました。
6月には、新たに「でえくさんず」というボランティアグループが発足しました。 仮設住宅に住んでいるお年寄りなどのニードに応えて、日曜大工を主な活動にしています。
多くのボランティアの方々の力により、宝塚市の震災復興もすこしずつ進んでいます。 あなたにもできることがあるかも知れません。
ベルマークを集めたり、ゴミを拾うボランティアならいつでもできます。 でも、もう少し積極的に社会のために何かをしてみたいと考えている人もいるでしょう。 わたしにでもできることがあるんだろうか? やってみたいという気持ちはあっても、不安もありなかなか一歩が踏み出せずにいる人が多いのでないでしょうか。
友達と誘い会ったり、お父さんやお母さんと一緒にボランティアのとびらをたたいてみませんか?
宝塚市には、そんなあなたの気持ちを案内してくれるところがあります。 それはボランティア活動センターです。 安倉にある宝塚市総合福祉センターと阪急宝塚駅前のソリオⅠ3階の2か所にあります。 気軽に相談してみましょう。
きっと、すばらしい出会いが待っているでしょう。
あなたは、福祉読本「みんなの問題です」を読んだことがありますか。 これは、宝塚市教育委員会が小学生用に発行したものです。 この本の中にもボランティアのことがくわしく書かれています。 (P25~)
また、ボランティアグループはどんな活動をしているのか知りたい人は、先生に言って、福祉読本「みんなの問題です」指導資料集(P25~)を見せてもらいましょう。 宝塚市内で活動しているグループが紹介されています。
宝塚市ボランティア活動センター
◆〒665 宝塚市安倉西2丁目1番1号 Tel 0797-81-2443
◆〒665 宝塚市栄町2丁目1番1号ソリオⅠ3階 Tel 0797-85-8875
山手台中学校からのお知らせ
震災お見舞い申し上げます。
私達は、昨年4月に開校した宝塚市立山手台中学校の生徒です。 被害が比較的少なかった私達は、今回の大地震に対して、私達にも何かできることはないかと、全校をあげてボランティア活動を実施することになりました。 掃除や給水時の水運び、ゴミ拾いなど、どんな事でも人の役に立つことを行おうと思っています。 よろしければ気軽に声をかけて下さい。 学校に連絡して頂いても結構です。 小さな事でも、とにかく頑張りますので、是非ご連絡下さい。
では皆様、大変な時ですが頑張って下さい。
1995年1月27日(金)
宝塚市立山手台中学校生徒会
連絡先
宝塚市山手台西1丁目4番地
電話(0797)88-1201
(はは、いいにおいと覚えて下さい。)
そのチョコレートがとてもうまかったです
山手台中学校2年 吉野 毅
初日はまず中山寺会館に行って、給水車から水を運ぶのを手伝った。 最初は何をしていいかわからなかったが、しばらくしておばさんに、
「ねえ、これ持ってくれない?」
と言われたから、ぼくは、
「はい、いいですよ。 家はどこですか?」
と聞いた。 これで心を開いて話せるようになり、どんどん積極的に水を運び始めた。
しかし20kgの壁はきつかった。 持ったら、いきなり腕がちぎれそうになった。 こんな調子でずっといったら腕がなくなるぞ、と思った。
次は売布のライオンズマンションの前に行った。 すでに給水車が来ていたから俺と○○はその周りを宣伝しに行った。
大声で、「今、給水車が来ています。」
と何度も大声で言った。 そしたら、おじさんが、
「ちょっとこっちへ来なさい。」
と言った。 素直に行ってみると、
「これで宣伝しな!!」
と言った。 (宣伝マイク?)
俺はちいっとばかりはずかしかったけど、その車で、
「ただ今、川口助産婦医院前に給水車が来ています。 容器を持って、水をくみに来てください。」
と言った。 おじさんが、
「ありがとう、チョコレートやる。」
と言いました。 だけど、ぼくらはボランティアで来ているから、はたして受け取っていいのか分からず、先生に聞こうと思いました。 そしたら伊藤先生が、
「それやったらもらっとき」
といったから、そのおじさんに、
「ありがとうございます。」
と言って、そのチョコレートをもらいました。
まだまだ水をもらいに来ている人がいたので、
「それ、持ちます。」
と言って、おばさんたちに代わって容器を持ちました。
5時30分ぐらいになって、伊藤先生が、
「それじゃー○○がもらったチョコレート、みんなで分けて食べようか。」
と言いました。 ぼくは、そのチョコレートがとてもうまかったです。 なぜなら、一生懸命働いてかせいだって言ったらへんだけど、自分としてよくがんばったと思えるからうまいんだと思った。
これが4日間続いたから、いつも中途半端で投げ出してしまう俺が、よく4日間もやり抜いたなあ、と自分で自分をほめました。 (宝塚市教育委員会編「こわかったよ」より抜粋)
ミニ知識
宝塚市水道局が地震対策指針を策定しました。 指針では、「応急復旧を地震発生後3週間以内に完了すること」「応急給水の目標水量を定め、地震発生から3日間は生命維持に最小限必要な水量として、1人1日あたり3リットル、10日後には炊事、洗面、トイレなど最低生活の水準を維持するための必要量として1人1日あたり20リットル、2週間後には通常の生活としては不便であるが生活可能な必要量として1人1日あたり100リットル、3週間後には、ほぼ通常の生活に必要な水量として1人1日あたり250リットルを給水すること」としています。
ミニ知識
9月1日は「防災の日」です。 この日は、大正12年の関東大震災の発生日であり、また、台風シーズンの中心で、いわゆる二百十日にあたります。 8月30日から9月5日までが、「防災週間」と決められ、宝塚市でも大規模な防災訓練が実施されます。
阪神・淡路大震災が起こった1月17日も忘れていけない日として「防災とボランティアの日」として定められました。
ミニ知識
けむりはどれくらいのスピードで広がるか知っていますか。 廊下などでは、人の歩く速さで広がります。 階段などでは、人が走って上がる速さで広がります。
ミニ知識
宝塚市は乾パン10,000食・毛布5,000枚を用意して、大きな災害に備えています。
ボランティア委員会
中山五月台中学校には生徒会の中に、ボランティア委員会があります。 「学校社会・地域社会に役立とう」をスローガンに10本柱の活動をしています。 募金活動、老人福祉、地球環境、障害者施設「あしたば園」、赤十字、テレフォンカード回収、グリーンマーク回収、ユニセフ、ベルマーク回収、図書活動です。
今年は、学年委員会からの提案もあり仮設住宅との交流を継続的に進めています。
・ふれあい行事に参加
・老人宅の訪問
・花を育てて贈るなどです。
また、近くにあるコミュニティーセンターと連携して
・託児ボランティア
・リサイクル市のお手伝い
・人形劇…見る、作る、演じるのお手伝い
・国際人形劇フェスティバルワークショップのお手伝いの呼びかけなども行っています。
これらの活動は、ボランティア新聞で紹介され、ボランティア活動に参加する生徒も増えてきています。
私がボランティアをやってみようと思い始めたのは、中1の頃でした。 そして、初めて実行したのは中3の夏休みのリサイクル市です。
ボランティアは思っていたとおりのものでした。 やりがいのある仕事。 満足感がある仕事。 そして、何より思いやりがある仕事でした。
ボランティアをやってみたいと感じて、3年目にやっと実行。 無駄な時間が多かったかもしれませんが、私は1回でもボランティアができて良かったと思います。
また、やりたいです。 少しでも私が役に立つ仕事、それがボランティアだと感じました。
(3年5組 濱名 寛子)
空缶による震災激励大壁画
宝塚中学校の文化祭に巨大な壁画が出現! 空缶9千個を連ねた力作です。
多彩な色をもった空缶をそのまま活かし、着色せずに文字が浮き上がっているように緻密に計算されています。 大震災に負けるな「fight!」 と刻んだアイディアのそもそもの発端は5月当初の学校行事にありました。 ウォークラリーとして地域を歩き、空缶集めとオリエンテーリングを兼ねた企画を打った結果、数千個の空缶が集まり、地域からも感謝されました。
折角のこの企画をもっと活かせないかと、知恵をしぼり文化祭への取り組みとして出てきたのが大壁画です。
夏休みから210数名が1人50個の空缶をノルマとして集める作業から始まりました。 図案も募集し、コンピュータで配列も計算され、色とりどりの空缶を組織だてて組み込んでいきました。
文化祭当日、膨大な空缶の列が1つずつ慎重に吊り下げられ、大壁画がだんだんと浮き上がってきます。 最後の1本が下がると目の前には見事な作品が現われ、大歓声があがりました。 生徒たちの苦労がふっとんだ瞬間でもありました。 ある生徒は「できあがった壁画を見て、何でもやればできるんだと思った。 壁画の前に立ち止まり、この中に自分が通した缶があると思うとすごくうれしい。」 と書いています。 懸命な作業の結実を確かめる多くの姿に、教育のおもしろさを再確認した思いです。
(平成8年3月18日号 「教育たからづか」より)
流汗悟道
~お年寄りとのふれあいテニス~
「お願いします!」 と大きな声が響きわたります。 コートでは、宝塚中学校テニス部員と60を越えた、しかし腕には自信のあるお年寄りとの対決が始まりました。
結果は……?
ゲームセット。 中学生は「試合についてアドバイスをお願いします。」 とかけ寄り、お年寄りの方々の丁寧で熱心な指導に、「はい! ……わかりました。」 と元気に返事をしていました。
実は、このお年寄りは宝塚テニス協会の方々で、「中学生もとても上手でびっくりしました。 また、是非やりましょう。」 と言って帰られました。
О-157でお年寄りとの会食会が中止される中、たまたま飛び込んできたソフトテニス交流試合でしたが、熟練したスポーツマンシップに触れることができ、「とても礼儀の正しい気持ちのよい生徒たちです。」 と誉めていただきました。
世代の違いを乗り越えて、お互いに同じスポーツで汗を流し、お互いのすばらしさを見つけ合うことができた1日でした。 まさに、「流汗悟道」の精神そのものでした。
宝塚中学校では、1年生はビデオによる学習・2年生は手話実技講習等・3年生はキャップハンディ体験(盲導犬による誘導と車イス体験等)と3年間で一通りのボランティア学習・体験ができるようにカリキュラムが整えられています。
地域に住んでいる、ハンディを持ちながらもすばらしい人生を歩んでいる多くの方々の生き方・人生観に触れながら、共に生きる社会の担い手として育っています。
宝塚市在住のA君とBさんは中学2年生です。 次の文章は、A君が風水害に、Bさんが大地震に出会った時のことについて書かれています。 文章の中の下線部分は次のようになっています。
何から情報を得て、どのように考えて行動したのかに注意しながら読んで下さい。
━━━(赤い線)の部分……A君・Bさんが得た情報
━━━(青い線)の部分……情報をもとにA君・Bさんが考え、判断したこと
━━━(緑の線)の部分……情報の考えをもとにA君・Bさんが行動したこと
A君の家は武庫川の近くです。 A君は9月のある日、テレビの天気予報で、台風が日本に近づいていることを知りました。 この台風は超大型で激しい雨と風を伴っています。 予報では日本に上陸する可能性もあり、今後の台風の動きに注意が必要ということでした。 A君は、もしこの台風が宝塚にやって来れば、武庫川が氾濫するかも知れないと思いました。
翌日の天気予報では、台風がさらに日本に接近し、このままのコースを進むと、四国に上陸する可能性が高く、厳重な警戒が必要と伝えていました。 テレビの「雲の様子」の画面を見たA君は、台風のまわりの雲はとても大きく、もしこの台風が近畿地方にやって来れば、近畿地方が全部その雲の下に入ってしまうほどだと思いました。
その日の夕方の天気予報では、台風は四国から近畿地方を直撃するコースを進む可能性が非常に高く、四国が暴風雨域に入り、激しい風雨にさらされているとのことでした。 A君は、川が増水して堤防がえぐられたり、道路が水につかっている様子や、強い風で街路樹や電柱がなぎ倒されている様子がテレビに映し出されるのを見ていました。 A君の家の近くではまだ風もなく雨も降っていませんが、空は黒い雲に厚くおおわれ、しかもその雲はすごい速さで流れていました。 A君は、もうすぐ宝塚にも台風が来るのだと思いました。 もし先ほどテレビで見たように、川が氾濫すれば大変なことになる。 川の水が押し寄せてきて、家が流されてしまうかも知れないと思いました。 それに、風で電信柱が倒れたら、停電して明かりもつけられないし、テレビも見られなくなると思いました。 A君は万一に備えて、懐中電灯や携帯ラジオなどを準備しました。 足りない物は近くの店に買いに行きました。 家に帰る頃には風が吹いてきました。 A君は家に帰るとすだれを外したり、植木鉢を片づけたりしました。 そうしているうちに日が暮れてきたので、普段は閉めない雨戸を閉めました。
夜になって雨が降り出し、風が強くなってきました。 天気予報では、台風は四国を通過中で、強い勢力を保ったまま近畿地方にむかっているとのことでした。 A君の家の近くでは、雨も風もますます強くなり、ビューッ、ビューッというすごい音が聞こえました。 夜もふけて寝る時間になりましたが、風の音と台風のことが気になってなかなか眠れません。 けれども布団に入っているうちに、いつの間にか眠ってしまいました。
突然、母に起こされました。 台風による大雨で武庫川が氾濫しそうなので市役所から避難勧告が出ている、と自治会の役員さんが知らせに来てくれたそうです。 A君は急いでパジャマを着替えようとして電気をつけましたがつきません。 台風で電柱が倒れて、停電しているということを後で知りました。 懐中電灯をつけて机の上において、その明かりで着替えました。 それからラジオを聞きながらナップサックを出して、避難所で必要な着替えや食べ物などを入れました。 ラジオでは、この台風のためにあちこちで停電や崖崩れや河川の氾濫があり、道路が通行止めになっていたり、避難勧告が出ていることが伝えられていました。 A君の住んでいる地域も、避難勧告が出ていて、公民館に避難するように放送されていました。
A君の家族は避難の準備が整ったところで、公民館へ向かいました。 停電で街灯がついていないので外は真っ暗なうえ、ものすごい雨と風です。 普段なら10分もかからないところを、30分くらいかかってやっと着きました。
公民館に着くと、すでに近所のおじさんやおばさんや友達も避難していました。 A君の家族も入口で名前を書いてから、中に入って座りました。 A君は、もう夜中であり、避難してきて疲れているはずなのに、変に目が冴えて眠る気にはなれませんでした。 むしろ友達と話がしたかったのですが、周りの人たちの疲れている様子を見て迷惑になると思い、友達と話をするのはやめました。 そして明日に備えて眠ることにしました。 台風は2日も3日も続くことはないので明日には家に帰れると思いました。 家に帰れば、台風で壊れたり、散らかったりしたところの後片づけをしなければなりません。 そのためには、今はよく寝て体力を残しておかなくてはならないと思ったのです。
翌朝は、台風一過の良い天気となりました。 幸い武庫川の氾濫は免れ、道路にあふれていた水も、ほとんど無くなっていました。 A君の家族は持って来ていた食べ物で簡単な朝食をとりました。 停電も夕べのうちに復旧していて、公民館のテレビで朝のニュースをしていました。 台風は日本海に抜けていましたが、四国と近畿地方の各地に崖崩れや床上・床下浸水の被害が発生していました。 また、公民館の入り口のところには紙が張ってありました。 その紙には、
「この地区でも床下・床上浸水が発生したため、し尿が流れ出て不衛生な状態が考えられます。 そのような場合にはこの消毒剤を使うように」と書いてあり、消毒剤が置いてありました。
A君の家族は公民館を出て家に帰りました。 A君の家も床下浸水していたらしく、玄関に泥がたまっていました。 A君は家に入ると雨戸や窓を全部開けて、家の中に風を通したり、庭の掃除をしました。 そのあと消毒剤をまくことにしました。 A君の住む地区は下水道が通っているため水洗トイレですが、念のため消毒剤をまくことにしたのです。 消毒剤をまくのは初めてなのでやり方がよく分からなかったけれども、消毒剤の袋に書いてある説明を何回も読んで、その通りにまきました。 そのあと、すだれや植木鉢を元通りにして、台風が来る前と同じ生活に戻りました。
近年、気象情報は目ざましく進歩しました。 中でも「ひまわり」(静止気象衛星)による雲の動きの把握や、「アメダス」(地域気象観測システム)による全国1,300箇所の気象データの自動計測、そしてこれらをすばやく集計して分かりやすく映像にして伝えるテレビや、手軽に情報が得られるラジオなどによって、最新の気象情報を知ることができるようになりました。 私たちはこれらの情報を必要に応じて活用し、あらかじめ台風による被害を防ぐための行動がとれるようになりました。
しかしテレビやラジオは、各地域や各家庭に向けた細かい情報まで伝えられません。 また、集中豪雨による鉄砲水や突然の河川の増水などは、事前に情報が伝わって来ないことがほとんどです。
宝塚市では、「宝塚市地域防災計画」を作成し、崖くずれや土石流の危険が予想される地域の方々には、あらかじめ危険個所の情報を伝えて注意を促すとともに、防災のための工事を施すなどの対策を進めています。 しかし各家庭でも、自分の家族構成や地域の特性を考えた防災対策をあらかじめ考えておくことが必要です。 日頃から「もし近くの川が氾濫したら」「もし近くの山が崩れたら」「もし、家が水につかったら」などの場合を考え、自分や家族、地域の人たちに被害が及ばないようにするためには、どうすればよいのかを話し合っておき、共通認識をしておくことが必要です。
また、いざという時には、てきぱきと行動することが大切です。 そのため最寄りの避難場所(公民館・学校など)と、安全な避難経路を確認しておくことが必要です。 日頃から散歩がてらに、家から避難所まで歩いて実際に確認しておきましょう。
突然の激しい揺れと地響きでBさんは目が覚めた。 あたりは夜の闇に包まれていたので、一瞬何が起こったのか分からなかった。 恐ろしくて声も出せず、心の中で「地震だ!」 と叫んで夢中で布団にくるまった。 体が布団ごと激しく揺さぶられ、家の柱がギシギシときしむ音や、台所の食器が落ちて割れる音や、何かが倒れるドスン、バタンという音が聞こえた。 地震の揺れは1分間ほど続いた。
あたりが静かになったので、そろりと布団から出た。 あたりは真っ暗だった。 電灯のスイッチを入れたが、つかなかった。 手探りで懐中電灯をとろうと思ったが、戸棚が倒れていてどこに何があるのか分からなかった。 散らかった物の中から、やっと懐中電灯を見つけ出した。 幸い壊れていなかった。 部屋はおもちゃ箱をひっくり返したようなひどい状態だった。 タンスが枕元に倒れていた。 下敷きになっていたかも知れないと思い、ぞっとした。
家族のみんなは大丈夫だろうかと心配になった。 廊下に出ようとしたが、戸が開かなかった。 「戸が開かない! 助けて!」 と叫んだ。 父が来て、戸を壊して開けてくれた。 母がタンスの下敷きになり、頭にけがをしていた。 手当をしようと思ったが、救急箱がどこにいったのか分からない。 探していると父が、「また地震が来るかもしれない。 家が崩れると危ないから外に出ろ!」 と言った。 Bさんは、やっと見つかった救急箱を持って外に出た。 玄関から出ようとしたが、玄関も開かなかったので、窓から外に出た。
外に出るとガスの臭いがした。 爆発しないかと不安になった。 近所の人たちも外に出て来ていた。 着のみ着のままのだった。 こんなに大きな地震は初めての体験だった。 どうなっているのか知りたかったが、テレビはつかないしラジオは持ち出せなかった。 父が車のラジオをつけた。 K市を震源とする大地震が起き、震源に近い地域では震度7を記録したとのことだった。 各地の震度も伝えられていて、宝塚市は震度6だった。 しかし、どこでどのような被害が出ているかなどの具体的なことは伝えられず、情報が入り次第放送するとのことだった。 ラジオを聞きながら車の中で母の手当をした。
近所のおじさんがやって来た。 この先の家がつぶれて下敷きになった人がいるので、父に助けるのを手伝って欲しいと言った。 Bさんも一緒に行って手伝いたかったが、危ないので母と車の中に残った。 ラジオからは各地で家屋やビルが崩壊した様子や、道路が通れなくなっている事などが、徐々に報じられるようになった。
しばらくすると空が明るくなってきて、町の様子が見えてきた。 瓦が落ちたり、ブロック塀が倒れたり、壁や道路にヒビが入ったりしていた。 数軒先では1階が2階に押しつぶされ、その瓦礫の中から下敷きになった人を助け出す作業をしていた。 車を出て近くまで行った。 近所の人達も周りに集まっていたが、ただ呆然と見ているだけだった。 作業は近所の建設業のおじさん達が中心に進めていた。 見ている間にまた地震があった。 数秒間だったけれどとても恐かった。
家に戻ってみた。 壁にヒビが入り、よく見ると少し傾いていた。 余震が来たら崩れるかもしれない。 家の中に入りたくなかった。 また車に戻った。 ラジオからは、震源に近いところで火災が起きているが、水が出ないので消火できない様子や、崩れた建物から救出作業が続いている様子が報じられていた。 幸いこの付近では火災は起きていないし、私たちにも大したケガはない。 でも静岡に住んでいるおばあさんがこの放送を聞いて、心配しているのではないだろうか。 無事だと知らせるために公衆電話まで行った。 行列ができていた。 テレホンカードではかけられないらしい。 みんな10円玉か100円玉でかけていた。 Bさんも100円玉でかけた。 おばあさんは、ニュースを聞いてすぐにBさんの家に電話をしたけれども、何回かけてもつながらず、とても心配していたそうだ。 無事だと聞いて安心した様子だった。
いつの間にか昼前になっていた。 何か食べる物を買っておこうと思い、近くのスーパーに行ったが、シャッターが閉まったままだった。 つぎに近くのコンビニへ行った。 やはり閉まっていた。 仕方がないので戻ってくると、コンビニの買い物袋を持った人がいた。聴いてみると、○○町のコンビニが開いているとのことだった。 さっそく行ってみた。 すごい行列ができていた。 2時間ぐらい並んだ上に少しだけしか買えなかった。 家に帰ると、父が水の入った大きなポリ容器を持っていた。 私が買い物に行っている間に、近くの学校で給水タンクに残っていた水がもらえると聞いて、倉庫にあったポリ容器を探し出して来て、もらいに行ってきたそうだ。
夕方になった。 今夜寝る場所をどうしようかと思った。 まだ余震が恐くて家に入る気にはなれないし、辺りはまだガス臭いので、避難所に指定されている近くの中学校に行った。 体育館が避難所になっていた。 入口で受け付けをして、1人1枚ずつ毛布を貸してもらった。 中にはもう何組かの家族がいて、毛布を広げていた。 布団や荷物を持って来ている人もいた。
近くのおじさんがラジオを聞いていた。 今回の地震は大規模で死者や行方不明者が多く、建物の下敷きになったまま、まだ助け出すこともできない人もたくさんいると伝えていた。 火災や崖崩れ、ガス漏れの危険があるので、避難勧告が出ていることなども伝えられていた。 Bさんはお腹も空いていたし、毛布一枚で寒かったせいか、疲れているのになかなか眠れなかった。 このまま家に帰れないだろうか……、家が余震でつぶれてしまったらどうしよう……。 家に帰れても、水も電気もガスも出ないのに生活できるだろうか……。 温かい味噌汁が飲みたい……。 温かいお茶でもいい……。 お風呂に入りたい……。 友達は無事だろうか……。 そんな事が次々と頭に浮かんだ。 不安な気持ちのまま、いつの間にか眠ってしまった。
翌朝、目覚めると体がだるかった。 毛布を敷いているとはいえ、硬い体育館の床で寝ていたのと、前日の疲れのせいだろう。 しばらくすると朝食におむすびが配られることになった。 1人1つずつ配られるはずが、数が足りなくなった。 避難者の中に、余分に取った人がいるのだろうか? 何だか気まずい雰囲気の朝になった。 朝食の後、家に戻って中を片づけることにした。 父が玄関を壊して開けた。 まだ余震は恐かったが、そんなことも言ってられなかった。 家の中の散らかった物を手あたり次第に片づけた。 母のお気に入りのコーヒーカップも割れていた。 壊れて使えなくなった物を次々と運び出していくと、玄関先にがらくたの山ができた。 昼前には電気がつくようになった。 電気ポットでポリ容器の水を沸かして、お茶を飲んだりインスタントラーメンが食べられるようになった。 そしてテレビが見られるようになった。 テレビには、倒壊した建物や焼け野原になった街が映し出されていた。 あまりの被害の大きさに言葉も出なかった。
1日中片付けをして、何とか寝泊まりはできそうになった。 父は泥棒やいたずらが心配なので家で寝泊まりをし、母とBさんは余震が恐いので避難所で寝泊りする事になった。 夕方避難所に戻ると、入口の所に伝言版ができていた。 学校がしばらく休校になることや、炊き出しに来ることなど、Bさんにも関係のあることや、この避難所に避難している人への個人的な伝言などが、紙に書いて貼ってあった。 そして受け付けでは、避難者への連絡や、食事の数を正確に用意するために、正しく名簿に記入して下さいと言われた。
それから数日は、避難所で寝起きし、朝食を取った後、昼間は家を片づけたり修理したり、買い物に行ったりして、夕方避難所に戻るという生活が続いた。 伝言板の内容も、救急病院や診療所の案内といった公のことから、ボランティアで力仕事や洗濯をしてくれること、屋根の応急修理にビニールシートを斡旋してくれること、営業しているお風呂屋さんのことなど、すぐに役に立つ嬉しいものもたくさんあった。 そして消灯時間や食事の時間、足りない物資の申し込み方など、避難者の生活のルールも決められるようになってきた。
1週間ほど過ぎた頃には、避難所はすっかり避難者の生活の場となった。 ガスと水道はまだ使えなかったが、電気ポットやカセットコンロ、電子レンジなどが置かれた。 いつでも温かいお茶が飲めるようになったし、簡単な炊事ができるようにもなった。 そして受付には新聞が届けられるようになり、被害の状況や復旧の見通し、運行している電車や通れる道路のことなど、詳しいことが分かるようになった。 また宝塚市の臨時の広報も配られ、被災証明の手続きや、仮設住宅が建てられる見通しなどを知ることができるようになった。 その数日後には、避難所の横に仮設電話とファクシミリ(FAX)が設置された。 これで遠くの親戚や友達に無事を知らせるのに、行列を作ることがなくなった。
考えてみよう
私たちはテレビ・ラジオ・新聞などから世界中の出来事を日常的に知ることができます。 また、近年の通信技術の発達や通信産業の発展とともに、いろいろな方法で情報を得ることができるようになってきました。 Bさんの体験や、あなた自身の体験から、次のことについて考えてみましょう。
① 情報を得る方法(情報源)には、どのようなものがありますか?
② ①で挙げた情報源には、どのような特徴があるでしょうか?
③ ①で挙げた情報源は、災害時にどのくらい役に立つでしょうか?
④ 自分から情報を発信することもできる情報源は何でしょうか?
*下の表を使って、まとめてみましょう。
地震は突然やって来ます。 現在、東海大地震を予測するための研究が進められ、地殻の変化を測定・集計する装置などが東海地方に設置されていますが、それでもまだ、地震予知ができるほどの成果はあがっていません。
阪神間については、学説でも「大地震の周期は500年ごとなので、阪神間にはしばらく大地震は来ない」という説もあれば、「数年間は規模の大きな余震が起こる」という説、「大地震の後は周辺の活断層が動いて、周辺地域に再び規模の大きな地震が起こる」という説などがあります。
どの学説も、過去の地震の記録などから可能性を予測しているに過ぎず、風水害の予報のような実用的な情報ではありません。
近い将来に大地震が来るかどうかの地震予知は、現在のところ不可能です。
時には人々の不安な気持ちの高まりから、ありもしないことがいかにも本当のことのように伝わることがあります。 デマ・うわさに惑わされた人々がその不安な気持ちのまま、がむしゃらに行動しパニックになることさえあります。 大地震を経験した私たちは、震災直後の不安な気持ちから、「必ず大きな余震が来る」というデマ・うわさに惑わされたことはなかったか、よく思い出して下さい。 先に述べたように地震の予知は不可能です。 大きな余震がくる可能性はあっても、「必ず大きな余震がくる」とは誰にも断言できません。 地震に限らず、私たちは日頃から何が正しい情報であるのかを、見極める力を身につけていくことが大切です。
阪神淡路大震災の直後にテレビやラジオが伝えた情報は、被害を受けた街の様子など、衝撃的な印象を与えるものでした。 この情報により、全国・全世界から救援の手が差しのべられ、被災地へ多くの救援物資が送られたり、復旧隊やボランティアの方々がやって来て、人命救助や被災地の復旧のために大活躍しました。
しかし、テレビで報道された避難所には、余るほど多くの手が差しのべられた一方で、その近辺の避難所では必要な物資さえ足りない状態が続いたこともありました。 被災者一人一人のニーズに応じた援助を行うと共に、支援してくれる多くの人たちの好意が活かされるためには、各地区の対策本部と各避難所および避難所同士で、きめ細かい情報のやり取りが必要です。
やりとりする中で被災者一人一人の生活を立て直すことにつながる情報こそが、被災地で価値のある情報といえます。
このような、受けるだけでなく発信することもできる情報を扱うには、テレビやラジオよりも電話やファクシミリ(FAX)の方が優れています。 しかし震災直後は、一度にたくさんの電話が使われたため、電話回線がパンク状態となりました。 このため電話回線に頼らない無線通信や、大量の情報を蓄積しておいてから素早く送ることで、電話回線をより有効に利用できるパソコン通信が注目されています。 また各避難所では、伝言版や口コミといった、簡単で確実な情報交換手段や、身近で必要な情報を詳しく伝える広報やミニコミ誌などが大変役に立ちました。
阪神大震災のあと、情報を伝えることの重要性が指摘され、インターネット・文字放送・衛星放送・ケーブルテレビ・携帯電話・音声多重放送・見えるラジオなどが、身の回りにも普及してきました。
災害直後において、電話が通じない場合に役立てようとするものです。 市役所(防災センター)や、公共の施設(学校、公民館、隣保館などの災害避難所、病院や消防署・警察署)、自動車(市公用車)に設置され連絡を取り合うことができ、災害の状況をテレビカメラで撮影して送ることもできます。 これにより被害の状況を詳しく伝えることができ、2次災害を防ぐなど素早く的確な判断ができるようになります。
近隣の市との連絡にも役立ち、援助しあうことができます。 停電の時も、内蔵の電池で数時間通信できます。
私たちの学校にも設置されています。 確かめてみましょう。
災害時に、無線以外にも非常用の通信手段としてコンピュータを使った防災ネットワークシステムが設置されています。 市役所(防災センター)や、公共の施設(学校、公民館、隣保館などの災害避難所、病院や消防署)に設置され、ISDNという高速の電話回線で結ばれています。 文字だけでなく、地図や写真も送ることができます。
災害に限らず、人は、苦しく、悲しく、こわい体験をすると、こころの傷のために身体面や精神面にさまざまな影響がでるのです。
保健室来室者のうち、多かった症状
小学校 ・頭痛、腹痛、動悸等50.7% ・不眠40.8% ・体重の急激な変化22.5%
中学校 ・頭痛、腹痛、動悸等54.8% ・不眠48.6% ・極度の無気力 ・食欲の減退21.6%
高等学校 ・頭痛、腹痛、動悸等・不眠71.4% ・食欲の減退61.9% ・極度の無気力52.4%
(複数回答)
災害を受けた子どもたちの心の理解とケア指導資料(兵庫県教育委員会、1996)P69
災害にあった人々の多くが今までに経験したことのない気持ちになる
悲しみ
・大切な人が亡くなったり、傷ついた悲しみ
・災害によって家や大事なものを失った悲しみ
怒り
・なぜこんな目にあわなければならないのかという怒り
・他の人にわかってもらえないイライラ
恐れ
・同じような災害がまた起こるのではないかという恐れ
・家族がはなればなれになってしまうのではないかという恐れ
不安・無力感
・将来どうしたらいいのかわからない不安
・人間はなんと力のないものだろうかという無力感、失望
罪悪感
・自分だけ無事だったのをすまなく思う
心苦しさ
・自分が他の人に助けてもらわなければならない心苦しさ
疎外感
・自分が相手から大切にされていないと感じてしまう
災害を体験すると、ストレスによって身体に変調をおこしたり、心身共に変調をきたすこともある
自然災害だけでなく、想像を絶するショックを受けたとき、下の表のような症状が出ることがあります。 これはストレスで心が混乱した状態になっているのです。 ストレスにあった直後すぐにおきるものをASD(急性ストレス障害)、数ヶ月後ときには一、二年後におきるものをPTSD(外傷後ストレス障害あるいは心的外傷後ストレス障害)と呼びます。
このようなことは、今まで内面に隠れていた心の傷が災害のショックをきっかけに出るもので、誰にでもおこりやすいものです。
中学生によくみられることがら
身体面
・頭痛や腹痛を訴える。
・食欲がなくなったり、反対に食べすぎてしまう。
・便秘になることや、反対に下痢になることがある。
・目や皮膚がかゆくなる。
・眠れなかったり、反対に眠くて寝てばかりいる。
精神面
・イライラしやすくなったり、腹の立つことが多くなる。
・友だち付き合いがおっくうになる。
・気持ちが沈みやすくなる。
・今まで楽しかったことに興味が持てなくなる。
・悪いことだとわかっていても、やめることができない。
・年齢にふさわしい行動がとれなくなる。
阪神大震災ののち、大人の中にはストレスが原因で病気になったり、心の不安を訴える人もでています。
話すことによって、こころの傷を癒す
話を聴いてもらうことで、心の整理ができる
・話しやすい大人にくり返し聴いてもらう。
・友だちとたっぷり話す。
・同じような体験をした人と話す。
阪神大震災では、避難所などで出会った人々が地震体験を語り合うことで連帯感が生まれ、困難を乗り切る力となりました。
Aさんのケース
こわかったことを学校の友達と話し合っているうちに、元気に生活できるようになった。
Bさんのケース
「電灯を消すのがこわい」と言うと、「いつまで地震のことを言ってるんだ!」
と親に叱られた。 先生に相談すると母に話してくれ、それからは、家族と一緒に話をしながら寝たら眠れるようになった。
活動的にすごす
何事にもすすんで取り組んでいこう
・手伝いをしたり、自分にできることをやってみる。
・身体を動かす遊びを活発にしよう。
・学校の行事などに参加し、活動的にすごす。
Cさんのケース
仮設住宅から学校までは遠かったのだが、毎日通って、友達と話したり学校行事の準備などを積極的に手伝っていると、しだいに元気がでてきた。
心身の症状を早くよくするために相談しましょう
学校の先生やカウンセラー、専門医などに相談する
災害後、すべてのことが夢のようで、本当に起きていないことのように感じる人は、災害のこころの傷を徐々に受け入れようとしている過程にいます。 また、体験を何度も何度も思い出し、やがて心におさまっていく過程をたどることもあります。 どのような場合も、話を聴いてもらうことや、話せなくとも安心できる人のそばにいることで、つらい体験を越えて、必ず、生きていく力が湧いてくるのです。 それと同時に、身体症状も軽減していきます。
Dさんのケース
おなかが痛んだとき、養護の先生が痛むところをさすりながら話を聴いてくれ、だんだん痛みが和らいでいった。
あなたの悩みや気持ちを打ち明ける相手がいない時、あるいは、打ち明けたいと思う人が見つからないとき、話を聞いてくれる次のような機関もあります。
宝塚市立 教育総合センター 教育相談課 TEL0797-87-1718
宝塚 心のケアセンター TEL0797-84-2906
ひょうごっ子 悩み相談センター 阪神分室 TEL0798-23-2120
近所の人や知らなかった人同士も生活の中で支え合おう
芽
藤巻恵美子
避難所から我家に遊びに来た幼稚園の坊や。
「ぼくのうち、がっこうやねん」
「そう、みんなで一緒にいるんやね」
「むっちゃんは、いつからここにすんでるの」
「1年生の時からよ」
「ふうん、まえのまち、どうしたん。 つぶれてしもたんか」
思わず涙がこぼれました。
息子(むつお14歳)は、あの地震の激しい揺れと大きな音をものともせず眠りこけていました。 地震の恐さを知らないというのは、天がこの子に与えてくれた恵みなのでしょう。 臨時休校は、冬休みの再来とでも思ったようでした。
外へ出てみると、我家は半壊ながらもしっかりと建っていましたが、すぐ近くには全壊の家が連なっていて声も出ない有様でした。 現在の家へ越して来て8年、息子の成長を支えてくれた同級生、そのご両親、ご近所の方々の顔を思い浮かべては、夫と二人で尋ねて行きました。 みなさん自分達が大変な中にあるのに、開口一番「むっちゃんどうしてる。 怖がってない」と尋ねてくださるのです。 幸いに息子が頼りにならない留守を快く引き受けてくれるので~その実、一人で存分に好きな列車のビデオをみていただけなのですが~夫婦でそこここへとお手伝いに出かけて行きました。 水やおしぼりを届けた避難所の妙に静かなすし詰め状態を見るにつけ、痛ましい思いと共に、息子を連れてこの中に加わるのは到底無理であろうと思われ、つくづく家の残っていることを感謝させられました。 アンパンマンの歌と列車の響きをまねたゴットンゴットンという床をたたく音、アーッという大声が絶え間なく一夜で周囲も親もやりきれなくなることでしょう。
数日後、少し落ち着いたところで水も出ましたので共同風呂を始めました。 灯油ボイラーを使用していた為、どんどんお湯が沸かせました。 普段なんでも無く入っていたお風呂が急に貴重なものに思えました。 避難所からもご近所からも入りに来て下さいました。 毎晩毎晩大繁盛で、息子はチャイムに応じて玄関をあけたり、ペコンと挨拶をしたりして彼なりの存在感を示してくれました。 また入浴は時間制にしたので、決められた時間に「ふろ」と言ってきちんと入ること、裸でとび出していかない等と共同風呂の思わぬ教育効果もありました。 私はと言えば、サボリがちだった風呂掃除に励み、タイルは欠け落ちたままながらピッカピカの見違えるようなお風呂になり、50日の共同風呂を終えました。 お風呂や台所に不自由している人には、使える人が補い提供することで、少し不便を解消してもらえる。 ひょっとしたらこれはノーマライゼーションや地域生活援護への小さな小さな青い芽かなとふと思いました。
出典(財)兵庫県精神薄弱者育成会「震災と闘った親と子―100人の証言―」p139
「あの日を忘れない」
北淡町立北淡東中学校3年 島脇由貴
はっきり言って思い出したくない。 口では、「あんな地震」とかって、使うことはあるけど、頭では深く考えようとしていないのが本音だ。 逃げているだけなのは分かるし、これからのために前向きに考え行動しようと思う。 だけど、あまりにも、大きすぎて、自分の中でまだ整理がつかない。 だから今はまだ、あの日のことはなるべく考えないようにしたりしている。 ふり返るより先に何か次のことを考えたい。 次のことを考えていれば、やることは次々浮かぶから、地震のことを考えずにすむ。 一言でかたずけられるようなものじゃないから。 こわくてこわくて仕方なかったし、悪いこと考えて仕方なかった。 「この震災から学ぶ」のはそう考えなければやってられないという部分を持っていると思う。 本当に学ぶこと、身にしみて分かることが多かったというのは、ただ私たちからうばっていっただけのこととするには悲しすぎるから「できるだけ多くのことを学びたい」「少しでもこれから役立てたい」そう思ったからこそ、だと思う。
いやだけど、これからの自分のためにもあの日のことを書く。
1月17日午前5時46分。 ものすごいゆれが寝ている私をおそった。
父が一番先に反応して、私と母の頭の上に覆いかぶさってくれた。 ほんの数十秒だと思うが、めちゃくちゃ長く感じた。 私は、頭で今何が起こっているのかまだ全く理解できずにいた。 ただじっとふとんの中で何かに耐えていた。 タンスがたおれて自分の上にのっかかってきたのが分かった。 はっきり覚えているのはそれだけ。 あとミシミシっというのと、ガタガタガタ、という窓ガラスが左右にふられているような音が聞こえたような気がする。 でも、「ああ、どうしよう」とかは思わなかった。 まだそこまで頭が回っていなかった。 ようやく1回目の大きいのがおさまって「大丈夫か」と言われてそれに答えながらふとんから足をぬいた。 電気がついたのは、本当に本当にうれしかった。 あの状況ではかい中電灯もマッチ、ローソクも無理だったし、なにより明かりのないのは、何十倍もこわい思いをしたと思う。 考えただけでもゾッとする。 電気がついて自分たちの寝ていた部屋を見て叫びそうになった。 私は3つのタンスの下じきになっていたことが分かった。 母もタンスの下じき、もし父が自分のところにそのままいたら、足にはテレビ、頭にはタンスがのっかってしまっていた。 とにかく部屋とは呼べなかった。 台所も悲惨そのもの。 げんかんもすごかった。 通る道がなかった。 どこもガラスだらけ。 外に出られるようになったのは、午前9時をまわっていた。 もちろんあのM7.2の本震以後、幾度となく余震が起こった。 その余震でも、かすかな揺れでないのはもちろん、15年生きてきて初めて経験する大きさの揺れだった。 かなり揺れた。 「いつになったら止まってくれるんよ」と思った。 そんな中での作業だから、9時まで出られなかったのも仕方ない。 母は「よくこんな中で無事だったな」と泣いた。 本当に良かった。
この2ヵ月間、自分でもよく耐えたと思う。 たたみの上にすわっているとなんかいつも揺れていたし、すごく音に敏感になったし、夜眠れずに困ったし、余震くるたびに津波けーへんかなとすーごく不安になってじーっとラジオをつけてテレビつけて聞いていたし。 おばあちゃんちはかたむいてしまって今はもう取りこわしてなんにもないし。 富島の路地なんか家で通せんぼしてしまってるし。 全壊、半壊がほとんどで、ちっちゃい時遊んでいた所とか見慣れた所みーんな変わってしまった。 どんどんなんにもなくなっていって、もっともっと向こうが見えるようになっていく。 今まで見えなかった所から海見えるのも、手前の家が取りこわされてなくなると、その向こうにつぶれてる家が見えるのもいやだ。 それに多くの人が亡くなったこと。 5,300人なんて言われても仕方がない。 誰かが「一人の死は悲劇だが、数千人(だっけ、数百人だっけ)の死は統計学上の数にすぎない」とかっていったというのを昔の先生に聞いた。 “人の死”について、他人ごとだった。 おくしり島の人々のことに対しても島原の人々に対しても、募金とかはしたけれど、テレビなんかで見るだけで大変やなとしか思っていなかったかも知れない。 でも、今は違う。 いくら、5,000人でも50,000人でも、一人ひとりのことを考えられる。 一人ひとりの人に家族がいて、友達がいて、夢があって生きてきた歴史があった。 実際に、あの日のあの直前まだいた。 私に、かけがえのない人や、大切なものがあるように亡くなられた方々にもあった。 このごろ、読売新聞に亡くなった子供達の写真と、周りのだれかの一言が載っている。 昨日、今日といとこのこの友達の写真があった。 よく名前の出ている子だった。 仲が良かった。 コメントに「笑顔だけが頭に浮かぶ」とあった。 もう一人は、同級の子が「かなしくて、何度もその子の夢を見た」とコメントしていた。 小学生だ。 私にも、大切な友達がいっぱいいる。 もしだれかが……などと思っただけで、たまらなくなる。 だけど、本当にもう一生会えない人ができてしまった人がいっぱいいる。 それを考えると泣きそうになる。 それでも、前を見て進んでいっている人がいる。 だから、精一杯前を見て生きていきたい。 これからを大切に生きていきたい。 がんばるぞと思う。
この震災で人のあたたかさを知った。 助けられている自分を知った。 両親のたのもしさを知った。 友達のいることがすごくうれしかった。 感謝の気持ちを大切にしたいと思った。
ボランティアの方々、自衛隊の方々、消防の方々、両親のボランティア、消防の方々その他大勢の方々、そして友達・両親にとっても感謝していますありがとうございますといいたい。
何かすることがあるなら、春休みでも、ボランティアがしたい。
(兵庫県教職員組合・兵庫教育文化研究所編『阪神・淡路大震災と学校―教育現場からの発信―』エイデル研究所、1995)
災害に強いまちとは、単に台風や水害・火災・地震に見舞われても壊れない、丈夫な建物で造られたまちではありません。 大切なのはそのまちで暮らす人が、住みやすく安心して生活できるまちであるということです。 そのためには人と人とのつながりが最も大切であり、自然との調和も必要です。 また、建物も単に丈夫なだけではなく、いろいろな働きを持つ施設が必要です。 災害に強いまちづくりとは、「災害に強い快適なまちづくり」のことです。 これを人・施設・自然とのかかわりという3つの面からまとめると、次のようになります。
人
*日頃から地域の人たちとのつながりを大切にしている。
*防災意識を高めるため、防災訓練や防災教育をすすめている。
*ボランティア意識が高まっている。
*自然を大切にし、守り育てる意識が高まっている。
施設
*ふだんから人が集まり、つながりを密にする場所がある。
*建物が丈夫であり、台風や水害・火災・地震に耐えられる。
*災害による被害を広げないような施設(防火用水など)が整っている。
*災害時に避難場所となる広場などがある。
*広い道路があり、普段から通行しやすく、災害時には避難しやすい。
*ライフライン(ガス・水道・電気)が災害に強い構造になっている。
*ライフラインが被害を受けても、復旧しやすい構造になっている。
*通信手段(テレビ・ラジオ・電話・ファクシミリ・無線・パソコン通信など)が整っていて、外部との連絡が途切れない。
自然とのかかわり
*自然を大切にし、自然を守るための活動などが行われている。
*むやみに森林を伐採するなどの乱開発をしていない。
*山崩れや洪水などの被害を防ぐため、治山工事・治水工事が行われている。
*植林をすすめたり、街路樹や生け垣を作って緑を増やしている。
*緑地や公園を増やしている。
*ゴミを減らし、リサイクルをすすめている。
ミニ知識
家を建てるのに、接道義務というのがあります。 「道路に2m以上接していなければならない」というものです。 これは、災害時の避難経路の確保と消防活動がスムーズに行えるようにしたものです。
(図1)宝塚市震災復興促進区域及び重点復興地区
(図2)地域ステーションおよび地区防災拠点イメージ
① 災害対策計画について
宝塚市の前身である良元村や小浜村は、たびたび武庫川の氾濫によって大きな被害を受けていました。 兵庫県では、1895年(明治28年)から逆瀬川の治水工事を行い、崩れやすい山肌を階段状に切り開いて植林したり、砂防ダムを築くなどの取り組みをすすめました。 宝塚市としては、昭和36年に施行された災害対策基本法を受けて、6月の梅雨期と9月の台風や秋雨による風水害を想定した地域防災計画を作成し、崖崩れの危険のある斜面をコンクリートで固めたり、鉄砲水が発生しそうな河川の堤防を整備するなどの取り組みを続けた結果、近年は風水害による大きな被害はなくなりつつあります。
このように宝塚市では、風水害による災害に強いまちづくりをすすめてきましたが、平成7年1月17日に発生した阪神淡路大震災を教訓として、地震を含めた災害全般にわたって、災害に強いまちづくりを進めるように、地域防災計画を手直ししました。
ライフライン整備概念図
② 重点復興地区について
宝塚市では以前より、「宝塚市まちづくり研究所」という専門家の集まりを中心に宝塚市のまちづくりを考えてきました。 震災後は、計画の立案にあたり「宝塚市復興計画検討委員会」の助言を得て、震災復興の指針となる「宝塚市震災復興計画」を策定しました。 また、「宝塚市震災復興緊急整備条例」に基づき【災害に強い都市の創造】の実現に向け、「重点復興地区」として4地区(花の道周辺地区 ・仁川駅前地区 ・売布神社駅前地区 ・中筋JR北地区)を指定して取り組んでいます。 (その後、川面地区 ・売布地区 ・山本地区の3地区が追加されています。)
売布神社駅前地区の再開発計画を例にあげます。 かねてからの再開発計画は、次のようなものでした。
・建物を高層ビルにして敷地を有効に利用する。
・ビルは大店舗・専門店舗・公益施設・駐車場・住居として利用する。
・駅前広場やグリーンベルトを作る。
・駅前ロータリーを作って車の出入りをしやすくする。
・道路(旧国道176号線)拡幅する。
(図6)売布神社駅前地区復興計画地図
(図7)売布神社駅前計画イメージ
震災後、この計画は一部変更され、公益施設の中に、次のような施設を作ることがつけ加わりました。
*コミュニティー・ラウンジ
普段から地域の人たちが交流を深めることができる場所となる。
*和風ホールや会議室
災害時には避難所としても利用できる。
*厨房施設
大規模な給食が供給できる。
*ストックルーム(倉庫)
物資の備蓄ができる。
このように、売布神社駅前地区の再開発は、宝塚南口地区(サンビオラ)・逆瀬川駅前地区(アピア)・宝塚駅前地区(ソリオ)の再開発の流れを受け継ぎながら、「災害に強い快適なまちづくり」を目指して進められているのです。
③ 道路の整備について
宝塚市は、急速な都市化のために道路の整備が遅れており、慢性的な交通渋滞が続いています。 市街地近くを通る国道176号線では、中国自動車道の通行制限や閉鎖の時に、大変な渋滞が起こります。 そしてこの渋滞を迂回する車のために、市街地の渋滞が一層ひどくなります。 また阪神競馬の開催日にも、競馬場から市街地にかけて、大変な渋滞が起こります。
幹線道路の予定地には、すでに多くの住宅が立ち並び、市民の生活が営なまれています。 このため拡張や拡幅はなかなか進んでいませんでした。 しかし、震災後は、都市の機能を向上させるため、6幹線道路(宝塚平井線・尼崎宝塚線・宝塚仁川線・荒地西山線・宝塚池田線・山手幹線)と、市街地と西谷地区を結ぶ連絡道路の整備に着手しています。 また、住宅地内の市道の拡幅や私道を市道化して、生活道路・細街路の整備を進めています。
(図8)道路整備計画の地図
④ 公園の整備
震災後、公共の空き地の確保が重要視されました。 平成8年度修正の宝塚市地域防災計画では、主要な公園、緑地については、他の公共施設と連携を図りながら防災拠点とするように整備することと明記されています。
第3節 あなたのまちづくりプラン
① あなたの住んでいるまちの、まちづくりプランをたてよう
近い将来、私たちが再び阪神・淡路大震災のような大地震に見舞われるかどうかは、誰にもわかりません。 しかし、実際に大震災を体験した私たちが、私たちの子供たちや、その子孫までもが安心して暮らせる、将来のまちづくりを考えるとき、次のようなことを考えておくことが、私たちの努めであり、将来に対する責任でもあります。
① 被災して生命の危険がある人に、真っ先に救援の手をさしのべられること。
② 被災した人たちが、できるだけ不自由のない生活を過ごせること。
③ 被災した人たちへの援助や、まちの復興が、できるだけ円滑に進むこと。
④ 大地震でも壊れない、丈夫な建物や道路 ・ライフラインを作ること。
⑤ 建物や道路 ・ライフラインが壊れても、その被害が小さくてすむこと。
⑥ 建物や道路 ・ライフラインが壊れても、すぐに復旧できること。
⑦ 災害時にもやりとりができる通信手段があること。
② あなたのまちをチェックしよう
あなたの住んでいるまちは、災害に強いまちと言えるでしょうか? 次の項目を確かめてみましょう。
(1) 近隣の人たちと、普段からつきあいがある。
井戸端会議・自治会活動・地域コミュニティー活動などに参加している。
(2) 人が集まることができる所がある。
公民館 ・コミニュティーセンター ・学校等の施設が近くにありよく利用している。
(3) 広場がある。
緊急時の物資や、資材の置き場所、仮設住宅の建設地として利用できる。
(4) 広い道路がある。
緊急時にも車が通れ、物資の輸送などがスムーズにできる。
(5) 建物が頑丈である。
大地震でも、壊れて下敷きになることはない。
(6) 木立ちがある。
火災が発生しても、防火林の役割をする。
(7) 治山工事が完了している。
崖崩れの心配がない。
(8) 治水工事が完了している
河川の氾濫の心配がない。
(9) 情報のやりとりができる。
テレビ・ラジオ・電話・ファックス・無線・パソコンなどで情報のやりとりができる。
下の表に○×でチェックし、問題点を書き上げてみましょう。
③ あなたのまちの改善計画
あなたの住んでいるまちを「災害に強いまち」にするために、必要な物は何でしょうか? あなたの考えを下に書いてみましょう。
④ 宝塚市長さんへメッセージを送ろう。
あなたのまちの改善計画をもとにして、あなたのまちづくりプランをまとめ、宝塚市長さんにメッセージを送ってみましょう。
できあがったメッセージは、担任の先生に渡しましょう。 あなたの学校から、教育委員会を通して、宝塚市長さんに手渡されます。
防災読本作成委員会
<小学校部会>
委員長 柳沢 勇 宝塚市立安倉北小学校 校長
副委員長 村上 慶治 宝塚市立中山五月台小学校 教頭
委員 小阪田 明 宝塚市立光明小学校 教諭
委員 宮辺 邦明 宝塚市立すみれガ丘小学校 教諭
委員 田中 伸介 宝塚市立仁川小学校 教諭
委員 万本 生二 宝塚市立安倉小学校 教諭
委員 井東 剛 宝塚市立末広小学校 教諭
委員 大山 善久 宝塚市立安倉北小学校 教諭
委員 松山 誠 宝塚市立長尾小学校 教諭
委員 八幡 佳英 宝塚市立良元小学校 教諭
委員 三木 優 宝塚市立逆瀬台小学校 教諭
協力委員 花崎 進 宝塚市立教育総合センター 研修担当指導主事
監修 辻 恵子 阪神心理センター所長(スクールカウンセラー)
<中学校部会>
委員長 九鬼 和雄 宝塚市立長尾中学校 校長
副委員長 埜村 和彌 宝塚市立宝塚第一中学校 教頭
委員 奥谷 洋子 宝塚市立宝塚中学校 教諭
委員 小林 秀昭 宝塚市立宝梅中学校 教諭
委員 井上 秀清 宝塚市立御殿山中学校 教諭
委員 大本 日出康 宝塚市立安倉中学校 教諭
委員 大仁 一男 宝塚市立長尾台小学校 教諭
協力委員 奥田 誠治 宝塚市立教育総合センター 研修担当指導主事
協力委員 中村 泰衛 宝塚市立教育総合センター 研修担当指導主事
監修 羽下 大信 神戸外国語大学教授(スクールカウンセラー)
<事務局>
イラスト 香村 道夫 宝塚市教育委員会事務局学校指導課 主幹
編集 高田 親治 宝塚市教育委員会事務局学校指導課 指導主事
1.17忘れへんで
防災教育副読本
(中学校編)
平成9年1月17日
宝塚市教育委員会
宝塚市東洋町1番1号
TEL0797-71-1141
印刷 やまかつ株式会社